山科檀林real estate
檀林とは、僧侶の教育機関としての修行興学道場のことです。天正年間から元禄年間に日蓮宗は関東に八檀林、関西に六檀林を設け近世日蓮教学の教育研究の拠点となりました。
山科檀林は開山の日勇聖人が、寛永二十年(1643)三月に開創したのが始まりで、四条家・紀州徳川家・後水尾天皇の皇后、東福門院の厚い帰依を受けて開かれています。日勇聖人の元には多くの学僧が集まりましたが、その中でもっとも聞こえた人は寂遠院日通上人でした。
日通上人は幼い頃から日勇聖人に仕え、洛北の鷹峯檀林に学んだ後、日勇聖人の跡を継ぎ第二祖として慶安元年(1648)より寛文元年(1661)に至る14年間化主(住職)を勤められました。その間、妙玄講堂・論議場(妙玄講堂を寂遠院と称し、論議場を通玄峰と号した。)を設け、檀林制規を定められています。また広く浄財を勧募して諸堂を修繕し、山科檀林の基礎を確立されました。また京都東山にある本山 妙傳寺十六世となって入山し、更に池上本門寺第二十世、身延山久遠寺第三十世にすすまれたばかりでなく、当時の最高学府であった飯高檀林の化主(住職)となって教鞭を振るいました。日通上人の元にも多くの学僧が集まり、名僧を輩出します。化主(住職)を勤め身延山久遠寺第三十一世になられた一円院日脱上人や、同じく化主(住職)となられた寂耀院日哲上人。東山檀林の化主(住職)となられた収玄院日祐上人。法華経の日相本として有名な久成院日相上人。大研院日梵上人等がおられます。
この山科檀林から出た法脈を勇師法縁といい、この法縁から通師法縁(堀之内法縁、千駄ヶ谷法縁、一ノ瀬法縁、雑司ヶ谷法縁)、潮師法縁といった法脈を生み出しました。近世日蓮教学の礎を築いた優陀那日輝和尚もここで学んでおられ、山科檀林の化主は五百七十九世にのぼります。
さて、時は流れ幕末の頃、享和三年(1803)七月、幕府は諸寺に対し、寺格についての十七ヵ条を設問しました。主なものとして、ご朱印の有無、宮家公儀の位牌の有無、勅願所の有無、公儀その他からの葵の紋の寄附の有無、袈裟・色衣着用の有無等の問い合わせです。檀林ではこのような事と関わりがないとして、全て「無し」と返答しましたが、その副本奥に「将来の為に記す。学林が縉紳・権門・公家に阿附することは劣の極みなり。この答にて宜し。或いは猶子官家の立入等は無詮の事也」と朱書きしています。山科檀林の識見、正に見るべきものがあります。
230年間続いた山科檀林もついに明治五年(1872)、宗政の変化により廃止されました。現在、護国寺には開山の日勇聖人をはじめ歴代化主(住職)の廟があり、今も香煙絶えることがありません。